大原奨農会農業研究所 初代所長 近藤萬太郎博士について

大原奨農会農業研究所の初代の所長である近藤萬太郎博士 (1883年-1946年)は、岡山県邑久郡豊村(現在の岡山市西大寺)で近藤甚蔵の3男として生まれた。岡山中学時代に西大寺の自宅から3里の道を通っ て5年間通学したことは有名である。第六高等学校、東京帝国大学農科大学を経て、東京帝大大学院で種子学を専攻した。

1910年にドイツに留学し、ホーヘ ン農科大学で品種の鑑定に関する論文を完成した。

1914年1月に倉敷に帰り、7月に大原奨農会評議員、同農業研究所の初代所長に就任した。

その後、 1946年に逝去するまで、32年間に亘って所長として創立後の研究所の育成と経営に努め、多くの研究者を育て、且自ら450編を超える業績を発表した。 特に種子学に関する知識は極めて該博であり、これを集大成した日本農林種子学は不朽の名著と言われている。また、穀物貯蔵に関する業績も理論と実用の両 面から高く評価されている。

1922年には、大日本農会から紅白綬有功章、1927年に農学会から農学賞(現在の日本農学賞)を授賞し、昭和5年11月 には天皇陛下に御前講演を行った。その後、1945年9月に学士院会員に推挙された。

二代目所長の西門博士(植物病理学者)の追憶によると、近藤所長は大変辛抱強い性格であったと言われている。大学の頃には一升瓶を脇に置いて勉強するほど酒好きであったが、大原孫三郎氏から健康 のために節酒するよう忠告され、その後は厳重に節酒を守り通したそうである。また、終戦の頃、日本の食糧不足は大変深刻であった。近藤所長が栄養失調で健 康を害したため、西門博士が、 「主要食料の米を研究し、米を生産し、米に囲まれて過ごしている農業研究所の所長が栄養失調になることはない」と進言したが、謹厳実直な近藤所長はこの進 言を取り上げなかった。西門博士は、この栄養失調が近藤所長の他界の一因をなしたのではないかと記している。

大原孫三郎氏の意向も受けて、近藤所長は研究員の仕事に対して自由を旨として干渉がましいことを一切言わず、若い所員に独自の仕事を許し、研究に専念さ せた。帝大に関係のない研究者として、最初の農学博士を東京帝大から授けられ、その後に日本農学賞を授けられたのも近藤所長の寛容と指導の賜物であると、西門博士は感謝している。また、教授と助教授が別なテーマを選び、各自がそれに専念することもできる研究の自由を与える近藤博士の遺風は、二代目の西門所長にも伝承され、その後の研究所においてもずっと引き継がれている。

近藤所長は、大原孫三郎氏と相談しつつ、早くから大原農研に学校との関連をもたせ、農業専門学校を附設する事を計画して、幾つかの大学と協議を進めていた。1943年に、最晩年の大原孫三郎氏か ら、岡山に国立大学農学部を作る際の中核とする構想の下に、岡山医科大学に農業研究所を寄付し、その附置研究所としたいとの内意が伝えられた。

しかし、 種々の事情で実現できない間に終戦を迎え、近藤所長は1946年に他界した。

その後、財団法人大原農業研究所は、1951, 52年に岡山大学に移管さ れ、1953年に大学の附属研究所になったが、近藤所長が当初描いていたものとは幾分異なった形になっている。