財団法人 大原農業生物研究所 初代所長 西門義一博士について

(大原農業研究所 第二代所長)

大原農業研究所の二代目の所長である西門義一博士(1892年-1973年)は、大阪府三島郡清渓村(現在の大阪府茨木市)で西門信太郎の2男として生まれた。しかし、長男の兄が夭折していたため、総領として義一と名付けられた。

1905年に茨木中学校(府立四中)に入学した。当時は、学生は羽織、袴で脚絆をはき、下駄履きで登校したが、学内では校外に 出かける時のわらじ以外は大抵跣(はだし)であり、冬でも教室では素足であった。

1910年、盛岡高等農林学校農学部に入学し、3年生になり、植物病理学を専攻した。

1913年3月に卒業し、4月から同校で植物学、植物病理学の講 義、実験を担当した。8月に倉敷から「病理にとる。すぐ来い」との電報が届いた。大原邸に出向き、大原孫三郎氏から直接に農学校設立の説明を受け、「植物 病理部へ来ないか」と勧誘され、即座に受諾した。

1914年1月に、ドイツから帰朝した近藤博士、小野寺、春川博士(当時はみな博士ではなかった)と共 に、倉敷で今後の計画について色々相談した。近藤博士が農学校よりも、農業研究所を作るべきだと主張し、それを大原氏に進言し、容れられた。大原氏の本意 は、農民子弟の教育機関を作ることであったらしいが、進言を容れられたのは、大原氏の人間の大きさであったと、西門博士は記している。

約2年間、盛岡高等農林や東京西ヶ原の国立農事試験場病理部で研究し、1915年夏に大原農業研究所の植物病理研究室に来て、稲いもち病の研究に着手し た。この研究には農林省から多額の補助金が10年余りも続いて支給された。次に行った禾本科植物の葉枯病菌属の研究で、1928年に東大から農学博士の学 位を授与された。

1929年から1931年までの2年間、ドイツに留学し、ベルリン大学で、キウロコタケの菌糸細胞の輪生シュナーレン(かぎ状連結)と核 分裂の研究を1年間行い、後半はドイツ国立農林生物研究所でフザリウム属の稲馬鹿苗病菌を研究した。

1931年に「日本産禾本科植物の「ヘルミントスポリ ウム」病に関する研究」で日本農学賞を受賞した。ドイツからの帰朝後はシイタケについて研究し、雌雄異体、4極性を明らかにし、この4極性を利用して優良 品種の育成を達成した。

1941年大日本農会より有功賞を授与された。  終戦の頃から、近藤所長が健康を害したため、副所長として所長事務を代行した。

1946年近藤所長が他界し、1948年1月から、第二代の所長になっ た。同年、昭和天皇が岡山県に行幸された時に、シイタケについて御前講演を行い、シイタケの優良品集改良法について説明した。所長就任時は、戦後のひどい インフレーションに加えて、1947年の農地改革で、研究用地の数町歩(数ヘクタール)を除く、財団所有農地(水田約200町歩(約200ヘクタール)) を全部手放し、資金源を失ったため、研究所の運営は大変困難であった。理事の大原総一郎氏と西門博士が骨を折り、広く政、学会の多くの人々の協力を得て、 文部省から多額の補助金を得て運営したが、ほとんどが職員の給与に当てられたため、研究費は微々たるものであった。この時期に、西門博士は病理部の部長と して、食用菌(シイタケ菌、ヒラタケ菌、マツタケ菌)の研究を行い、シイタケ菌、ヒラタケ菌の人工栽培技術の改良発展に尽くした。また、改良シイタケ菌、 ヒラタケ菌の販売によって得た収益は、戦後混乱期における研究所の研究活動の大きな支えとなったと言われている。

岡山大学の開学により、国営移管が問題になり、1951年、52年に研究所の財産を無償寄付し、岡山大学の研究機関となり、岡山大学附置農業研究所と改 称し、所長となった。

1958年に、岡山大学の評議会で定年制が決められ、10月に退職した。退職後、1959年に西門菌類研究所を高槻市に設立して所長 となり、翌年に大阪菌茸食品株式会社を設立して社長になった。

1961年紫綬褒章を授与され、1965年には大阪府知事より、産業功労賞を授与された。  西門博士は、自らの処世の信念は現状において最善を尽くすこと、趣味はゴルフであると述べている。少年時代に植物採集を始めたのと同様に、動かない静止 している球を打つゴルフは、慎重にやれば何とかなり、相手に迷惑をかけることはないと、ゴルフを始める動機について記している。

1953年に自伝「西門義 一 研究生活の思い出―おいたちと研究生活」、「西門義一研究生活の思い出―研究報文目録とその要点」が、「研究生活の思い出」に合本されて出版されてい る。