岡山大学くらしき会公式サイト



以下、記事の抜粋です


「会長挨拶」   
那須英夫(昭和46年卒業) 

 私は、46年から2年間、植物病理部門の日浦研究室で勉学させていただきました。当時の同級生は害虫研究室の渡部さんと育種研究室の黒住さんの3名で、2年生を含めても学生は約6人程度と記憶しています。3人とも圃場レベルの試験研究を行っていたので、圃場やガラス室にいることが多く、そのため、他の先生方とも楽しく談笑できました。また、昼はテニス、定期のソフトボール大会などを行い、あっという間の2年間でした。その後、岡山県に就職後またあっという間に25年間がすぎてしまいました。
 当時の大原農業生物研究所からいまでは岡山大学資源生物科学研究所に名称が変更になるとともに、学生の卒業生も  名にもなりました。OBを含めた職員相互の親睦会を開催しようという機運は、以前からあったようですが、これまで、実現しませんでした。しかし、この度職員、学生が参加できる同窓会として、岡山大学くらしき会が発足できたのは、所長さんはじめ事務局の方々には大変なご苦労があったものと存じます。
 本年2月の総会で私が岡山県内に在住していることと、大原農研時代の昔の卒業生だったことから、今回はからずも同窓会会長を引き受けることになりました。今後、本会が末長く続きますように、皆様方のご援助、ご協力をお願い申し上げます。


「岡山大学くらしき会」発足に寄せて 
本吉總男(研究所長)

 本研究所の前身である岡山大学農業生物研究所が昭和44年に発足した岡山大学大 学院農学研究科(修士課程)の組織に参加して以来、30年の歳月が流れ、また、昭 和60年に発足した自然科学研究科(博士課程)の組織に参加して以来、14年が過 ぎました。そして、昭和69年の資源生物科学研究所への改組を経て、平成11年3 月までに、修士課程170名、博士課程23名の修了生が社会に出て行かれました。 一方、大学院教育における30年間には、多数の教職員の方々がそれぞれの時代の大 学院生といろいろな係わりをもって来られました。そして、現在、博士課程に18名 、修士課程に34名の学生、その他数名の研究生が倉敷キャンパスで学んでおります 。また、39名の教官、18名の職員、20名を越す非常勤職員が、教育、研究また はその支援に携わり、過去の輝かしい伝統の上に立って、今日の研究所の発展のため 、努力しております。
 このように、年々修了生の数が増加して行く中で、同窓会の設立の要望が高まって まいりました。そこで、数年前から、修了生の先輩の方々や現役教官の方々により設 立に向けての具体的な検討が行われて来ましたが、昨年の春に設立準備会を組織し、 同窓生の皆様のご賛同を得て、本年1月16日の総会において、「岡山大学くらしき 会」がめでたく発足いたしました。
  同窓会の意義は、もちろん、会員の親睦にあります。キャンパスで一時を共に過 ごした友と旧交を暖めることができるのは、人生においてもすばらしいことです。研 究所の今日までの発展を支えて来て下さった旧教職員の方々にお会いできることもま た喜びです。加えて、在学生や修了したばかりの若い同窓生にとっては、社会の一線 で活躍されている諸先輩に謁見できますことは、この上もない励ましになると思います。
 一方、わが国の大学においては、過去の教育のあり方への反省に立って、21世紀 に向けて、研究・教育において個性ある大学づくりを目指しており、岡山大学もその 例外ではありません。本研究所も、岡山大学の唯一の附置研究所として、また全国の 大学の付置研究所の中でも、唯一の「資源生物」を研究対象とする研究所として、創 造力と個性豊かな研究と、その研究の現場の中での大学院教育に実績を上げることが 求められています。研究所の新たな発展の途上におきまして、多くの方々の参加によ り、立派な同窓会が設立できましたことは、研究所側にとっても、大変心強いものを 感じております。同窓会が大きく育って行くことは、研究所の活力の反映であると思 います。
 皆様のご支持を得て、「くらしき会」が、研究所とともに、益々発展して行くこと を期待しております。

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特別寄稿 
「くらしき会会報を発刊されるにあたって」
資生研運営委員(財)大原奨農会理事長(財)大原美術館理事長 大原 謙一郎 

くらしき会会報のご発刊を心からお祝いし、関係者の皆様のご努力に敬意を表したいと思います。この会報が、メンバー相互の交流を深めると同時に、会員の皆さんが倉敷で過ごされた日々を思い出していただく一つのきっかけにもなればと期待しています。 私は、幼稚園までの幼年期を倉敷で過ごした後、小学校に入学する頃から40年あまりの間倉敷を離れて暮らしていました。その間、お盆やお正月に倉敷に帰って来る度に、この町の細く入り組んだ路地や運河沿いの道を歩き、近くの田園や高梁川の堤防のたたずまいを眺めるのが大好きでした。倉敷の空気を満喫して、心休まる思いでした。 やがて私は、再びこの地に住むことになり、倉敷に多くのお客様をお迎えするようになりました。そして、いろいろ感想を伺う機会が増えるにつれて、この倉敷のたたずまいがお客様達にどのように受け取られているか、以前にも増して気に掛かるようになりました。それと同時に、人生のひと時をこの倉敷の地で過ごされた方々がどのような思いでおられるか、倉敷を離れて暮らしていた頃の私のように、この地の事を懐かしく思い出していただいているだろうかと気になるようにもなりました。 この雑誌が、研究所に縁ある皆さんの間の絆をますます強いものにしてくれる事は間違いありません。と同時に、この会報によって、会員一人一人の皆さんの中にある倉敷の思い出がリフレッシュされ、今までより一層暖かいまなざしで倉敷の事を見ていただけるようになるとしたら、現役の倉敷人の一人として、こんなに嬉しい事はありません。 ますますのご発展をお祈り申し上げます。
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寄稿
「アメーバに騙された話」 
大島俊市(元職員) 

 「また失敗だ!」。いがぐり頭で学生服の私は、顕微鏡の前でがっかりした。前の日に寒天平面へ塗っておいたシロキクラゲの胞子が、何処へ消えたか影も形もないのである。かわりに雑菌が視野一杯にうようよしている。時は昭和18年、所は旧制鳥取高農の研究室。H教授から「シロキクラゲは高価な薬用キノコだが、人工培養できない」と聞いて、Boys be ambitious. とばかり、挑戦したのでありました。だが、その第一歩の胞子発芽の壁が破れない。 雑菌と言つたのは、実はアメーバの大群なのです。学生のくせに大それた事を企てたな、と潮笑するかのように、彼らはしンズの下で乱舞していた。何回やっても同じ失敗に終わった。「やっぱり、大先生の言葉どうり培養できないのだ」と諦めた。ただ、理科の教材つくりには役立つかも知れないと思った。そのうち、このキノコのシーズンは去り、戦争中の繰り上げ卒業で、あわただしい日々を過ごすうちに、この事は忘れてしまった。
 時は流れて30年あと、水戸へ転勤して間もない頃、西門義一先生の勧めで、群馬県桐生市に森産業(株)研究所を訪ねた。そこでトリコデルマ菌の講話をした後、研究員の方々と座談した。話が、たまたまシロキクラゲに及んで、「あれは培養できないのでしょう」と言った。ところが、深井研究員の答えは意外であった。「培養できますよ。ここで種菌を作っていますよ」。「えっ、でも・・・」と、私はかつての失敗談を披露した。深井さんいわく、「そのアメーバが胞子の発芽なのです」。つまり、胞子は一夜のうちに動物?に変身して、人の目をくらましたのだった。道理で、寒天平面の何処にも胞子の跡を残してなかった。
 彼の分離法はこうである。試験管に鏡肩培地を詰めて殺菌し、シロキクラゲの胞子からのアメーバを植える。アメーバは培地に潜り込み、試験管の底へ向かううちに、元の菌の姿に戻る。管底に達したころには、立派な菌糸になっている。この時、試験管の底を割って、無菌的に新しい培地へ採るのである。
 さては、あの学生時代の失敗は、実は成功であったのか。それにしても、シロキクラゲ胞子の陽動作戦は巧みであった。17歳の浅智恵では、とても見破れるしろものではない。「発芽とは、胞子から菌糸が出てくるもの」との先入観に捕らわれていたのだ。もし、一晩徹夜して鏡検していたら、深夜に胞子の『粘菌流』の早変わりを暴けたかも知れない。かつて、陸軍中野学校で聴いた変装の極意もなんのその。シロキクラゲの変身の技には、一流スパイも歯がたつまい。
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「倉敷での27年」 
河崎利夫(元所長)

 私が岡山大学農業生物研究所(当時)に着任したのは,1967 年の 1 月の初めでした。現在の図書館の所には,3 階建の風格のある旧書庫がありましたが,北側の研究棟(2号館)や3号館,それに RI・遺伝子施設もなく,研究所構内には,木造平屋建ての宿舎が10 戸余り散在していました。当時の倉敷駅も木造の平屋で,駅前に,トタン屋根のバス・ターミナルがあったように記憶しています。特に,駅前から旧市役所(現在の市立美術館)への目抜き通り(?)が非常に狭く,バスが通るときには,人間は家の軒下に避難しなければならないほどでした。しかし,当時は観光客も少なく,静かな,大変落ちついた町という印象が今も強く残っています。
 研究所に大学院制度ができたのは,岡山大学農学部と一緒に"岡山大学大学院農学研究科(修士課程)"を申請し,認可されたときからです。1969年4月のことでした。初年度は,研究所には入学者がなく,研究所の最初の大学院生は1970年からで,杭田要さん,直原一男さん,野間義明さんの3人だったように思います。その3人が,今,立派に活躍しておられることを本当に嬉しく思っています。その後,1985-86年に,研究所が理学部,薬学部,工学部,農学部等と一緒に"大学院自然科学研究科(博士課程)"を作り,現在の大学院制度が完成しました。
 私どもの研究室では,農学部の幾つかの研究室との共同研究で,学部の専攻生を引き受けていましたが,それに加えて,大学院設置後は大学院生も入ってくるようになりました。他研究室の学生達との交流も多かったのですが,それぞれ個性のある学生達で,倉敷での27年は,私の人生で最も楽しく,最も貴重な期間だったと思っています。
 その間,私の着任当時には 6 部門だった研究所は,"水質学部門","雑草学部門",さらに"大麦系統保存施設"と次々に拡充されました。しかし,大学に対する改組・転換の嵐は強くなるばかりで,当時,一番風当たりの強かったのが国立大学の付置研究所に対してでした。1986 年前後に研究所におられた万々はご記憶と思いますが,丁度私が所長の任にあったとき,我々の研究所が改廃の岐路に立つていたことは確かです。
 2 年間の文部省との折衝の後,研究所は「岡山大学資源生物科学研究所」として新しくスタートを切りました。生みの苦しみの中で,研究所の教官一同が深夜まで議論を重ねたことは今も鮮明に脳裏に焼きついています。それにも増して,当時の研究所事務部の方々の献身的なご尽力,大原奨農会・大原理事長の真情に満ちた励ましの数々,その他多くの万々のご支援には今も感謝の思いで一杯です。その後の研究所の発展は,現在の研究所の教職員や学生の方々にとってはよくご存じの通りですが,最初は 3 人の入学生から始まった研究所の大学院が,今や 50 人に近い院生を擁し,大学院卒業生も 200 人を越えると聞き,深い感慨を覚えています。昔から,学生のいない研究所は大学の研究所とはいえないと考えていました。"岡山大学くらしき会"がますます隆盛となり,それを基盤にして,我々の研究所が一層の発展を遂げることを願っています。
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「私と仕事」  
上野和治(昭和55年卒業生)

 学生時代に植物の勉強をはじめてから25年以上立つ。本当に月日のたつのは速いものだ。そして今も植物の世界に身を置いて小さな会社を経営している。学生時代は雑草、今は園芸植物(花壇苗中心)と少し世界は違うが。しかし、その時代に教えて頂いたこと、経験した事、全て何らかの形で今に繋がっているように思う。決して出来の良かった生徒ではなかったし、真面目でもなかった。ただ、どのような状況になろうと自分の一生の職業を決める時は、必ず、植物と接していられる世界で働きたいと考えていた。それと同時に少しの独立心もあった。しかし、今振り返って見ると、何一つ具体的な行動を取っていなかったし、それほど深くも考えていなかったように思う。周りの目には非常に危なっかしい存在に映っていただろう。その上に、卒業予定の年度に体を壊し、実家へ帰り入院生活を送る破目になり、卒業も同期の皆さんといっしょにできなくなってしまった。この時ほど自分に対しての無力感を感じたことはなかった。また、それと同時に自分の人生、仕事について真剣に考えた時期もない。一時は、本当に『神は非情だ。』と、恨んだ事もあったが、すぐに、まず今の自分の状況を素直に受け止めるところから始めないと何も始まらないし、始めることも出来ないと気づかされた。『よし、じゃ、これを逆に利用してやろう。』と思い、じっくりと残りの半年間は今までの計画の練り直しに当てた。毎日『あせるな。』、『あせるな。』と自分に言い聞かせて過ごした時期を、昨日の事のようにはっきりと覚えている。確かに私にとっては病気によって物理的時間の損失はあったが、精神的にそれ以上のものを与えられたような気がする。もし、20年前にあの時期がなければ、今の自分はなかったように思う。(それはそれで違った人生はあったかもしれないが。)
 今、私は非常に楽しい。毎日が感謝でいっぱいである。わたしたちの業界もご多分に漏れず、大手の進出で中小は非常にきびしい。混沌としていて先が見えない(ガーデニングブームの恩恵は出版業界と、ほんの一部の業者だけ)。しかし、学生時代より思っていた植物の世界で仕事をさせてもらい、自分のやった事が全て,自分のこととして評価され、跳ね返ってくる。この極当たり前のことが今、非常に楽しいのである。また反面、自分の判断ミスで回りに迷惑を掛ける結果になりうることもあるが、決して独り善がりにならず、回りをきっちり見ながら、自分の夢の実現を考えていこうと思っている。また今後は、自分という範疇だけでなく、仕事を通して何らかの地域貢献に繋がるようなことを考えていかなくてはならないとも思っている。
 今後ますます、経済、環境、福祉と厳しい時代に入っていくが、仕事とは、それらの相反する矛盾を如何にお互い違った立場で、協力しながら乗り切っていくことだと理解し、楽しく、ワクワクしながらやっていきたいものだ。
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「私の原体験」  
谷川元一(昭和58年卒業生)

 「お前ら、ひんなが(1日中)遊んどっても金になるかもしれんが、わしらは違うんじゃ。なんとかせえ!」
 怒鳴られた。今から十年前、ナスの産地がミナミキイロアザミウマによる大きな被害を被っていたころ、その調査のため、産地に通っていたときのことだ。
 最初は、「試験場の先生が来てくれた。(これで何とかしてくれる)」と、生産者に我々が調査に訪れるのを喜んでもらえた。しかし、我々が何回訪れても、ミナミキイロアザミウマの防除に対して何ら解決策を見出すことができず、全くの無力だと知ったとき、前述の言葉が発せられた。
 農業試験場で農薬分析担当になったばかりであった。生産者に「農薬を散布しても、効果がない。どうすればよいか」と尋ねられ、絶句した。その時まで、農薬はただ散布すれば、効果があるものだと思っていた。散布法について調べたが、その具体的な方法は、どんな本を開いても、どんな論文を取り寄せても書かれていなかった。
 何とかしなければならないと思った。ナスへの農薬散布法の問題点を探るため、実際にナスを栽培した。面積にして4a、栽植本数にして400本、畝立てから、定植、整枝、収穫、除草、農薬散布まで、ナス栽培に必要な行程を全てこなした。生産者の数分の1の規模であったが、それでも夏の最盛期には、1日当たり2000個を超える果実を収穫し、その合間をぬって、病害虫防除のために農薬を散布した。全てが初めての経験であった。そして、農薬散布について何も知っていなかったことを思い知らされた。灼熱の真夏に農薬を散布することが如何に過酷な作業であるのか。また、その作業を続けても、被害が一向に減少しないことへのやりきれなさ。生産者の怒号は怒りだけでなく、悲鳴でもあったのだ。
 このような作業を通して、農薬散布の問題点について、今まで見えていなかったことが、おぼろげながら認識することができた。そして、それを3つに整理した。「効率」、「快適」、「健康」であり、これを農薬防除の新3Kと名付けた。
 これが、農生研と呼ばれていた研究所を修了して就職した後、私が研究テーマを決める上で、原体験となったことです。以降、大変遅い歩みですが、続けています。
 先日、資生研を訪れる機会があったのですが、在籍時代に比較して、新しい建物が数多く増えているのに驚きました。研究所も生き物であり、こちらは駆け足で生長しているのだなと、感じ入りました。また、学生も、15年前には、私を含めて少し変わっている学生(私だけ?)が多かったと記憶していますが、その気質が変化していると感じました。
 時間の流れとともに、人も社会も移り変わっていくものでしょう。今後とも、学生の皆様、先生方、生物資源科学研究所の更なる発展を祈ってやみません。
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「近況報告」  
中住晴彦(昭和59年卒業生)

 同窓生の皆様、お元気ですか? 私も40歳を目前に控え、体力がぼちぼち衰え始め、片道10Kmの道の通勤に夏場でも車を常用するようになってしまいました。でも、仕事上の体力勝負では新人相手に連勝中で、もっとホネのあるやつがいないものかと思っていたら、今年、大学で自転車競技部に入っていてツール・ド北海道にも出場したというバリバリの体育会系新人が現れ、現在熾烈な体力一本勝負が圃場を舞台に展開されております。そこで一言、「まだまだ若い者には負けん!」(すっかりオジサンです・・・)。
 メロンの育種に携わって8年目に入ります。私がメロンの担当と言うと、イメージに合わないとおっしゃる方もいるかもしれませんが、メロンの試験は結構体力を必要としますので私には似合いの作物ではないかと思っております。「育種は1にアイディア、2に体力、3・4も体力、5も体力」を座右の銘とし、日夜体力勝負をやっておりますが、農研の先生方に教えていただいた「育種で最も重要なのはアイディアである」ということを、筋肉質の脳みそに無理矢理たたきこんで片時も忘れないように心掛けております。おかげさまで、今年までに2品種をリリースすることができ、来年も1品種リリースできそうです。
というわけで、今も農研時代と変わらず圃場を走り回っておりますが、当時と違う点と言えば、圃場では裸足ではなく地下足袋か長靴を履くようになったことぐらいでしょうか。
農研時代に大変お世話になった高橋隆平先生が先月ご逝去されたことを先日知りました。隆平先生のご逝去の報に接し、学生時代に大変かわいがっていただいた者として非常に悲しく思いました。以前、中住という変わった学生が居て手を焼いたなあ、今はどうしているかなあ、・・などど、あの世でも心配されているかもしれませんが、私も、どうやらまっとうな社会人になったことをご報告し、心よりご冥福をお祈り申し上げたいと思います。
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「常夏の珊瑚礁のしまから南風に乗って・・・」 
宇根和昌(昭和63年卒業生)

 私は、岡山大学資源生物研究所(当時は農業生物研究所)を平成元年に卒業した沖縄県石垣島出身の宇根和昌です。この度、岡山大学農業生物研究所・資源生物科学研究所同窓会が平成11年1月16日に設立されたことに大感激している者の一人です。
 岡大農研では雑草学教室で沖陽子先生に水性雑草についてご指導してもらい、修士論文もどうにかまとめることができました。雑草学教室では中川教授、西助教授、榎本先生にいろいろ雑草学についてのご指導をいただきました。雑草学教室は今ではないと聞いていますが、榎本先生、沖先生が現役でご活躍されていますので、心強いです。
 学生時代の思い出は、沢山ありますが、なんと言っても酒飲みの時が今でも鮮明に覚えています。先輩の野田さん(病理学)、岡村さん(水質学)、露崎さん(雑草学)ご夫妻、小山さん(雑草学)、森田さん(雑草学)、小山内さん(育種学)、同期の柴田君(育種学)、最上君(水質学)、金沢君(水質学)、芳口さん(雑草学)たちとお金もないのによく酒が飲めたものだと思います。夏になると風情のある倉敷美観地区を流れる倉敷川に飛び込んでの川のぼり競争、今でも倉敷川の水の爽やかさが口の中に残っているようです。それに学生の面倒見のよい榎本先生と行きつけの酒場(名前忘れました。)でいろいろ真剣に議論したり、ふざけたり、カラオケを歌ったりさせてもらいました。
 また、学生休憩室での貧乏な学生同士(小山さん、小山内さん、柴田、最上そして私)が金を出し合って、毎日交代制で作る夕食、各自の好みで調理されたメニューをみんなで食べたことは昨日の事のように覚えています。時々、隣の会議室で教授会が始まっている最中に調理して怒鳴られた時もあったと思います。
 倉敷で2年間の生活の中で今でも印象に残っていることは、誰に言われたか覚えていませんが、「えらいなー」と言われ、その返答に困ったことです。自分は学生で偉い人でもないのにな?と思って後で確認したら岡山方言で「つかれたねー」とわかりました。
 学生の時にお世話になった木造二階立ての村上アパート(白楽町内)は残っているでしょうか? また、大家さん今でも元気でしょうか? 周りが墓地で夜中に帰るのに勇気がいるアパートだったと覚えています。
 私は、卒業後、沖縄本島北部にある海洋博覧会記念公園で7年間主に公園管理の業務に従事し、今では生まれ育った石垣島に戻って石垣市役所の農政課で勤務しています。ここ石垣島では、「うるずん」から「若夏」の候といわれ、梅雨に入ってなかなか雨は少ないですが、湿度、気温とも高くじめじめした亜熱帯特有の気候が続いています。日差しも強く、早々と海開きされエメラドグリーンのビーチで海水浴もできます。
 私もとりあえず人並みに結婚し、長女(小学2年)、長男(3歳)、次女(9ヶ月)の子供3名に恵まれ、毎日が子育て、仕事に多忙な日々を過ごしています。
 最後になりますが、私がここ石垣島から倉敷へ行く機会は少ないと思いますが、逆に同窓会の方々が来島される時が多々あると思いますので、是非ご連絡頂ければ幸いです。
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「資生研での2年間を思い起こして」 
豆塚弘毅(平成4年卒業生)

 私たち学生の主なイベントは院生会を中心に行なわれました。月一のセミナーでは毎月順番に研究テーマやそれに関係のある事を発表し、少しではありますが知識を広げるのに役立ったかと思います。でも、何人かはそれよりもその後の飲み会の方を楽しみにしていたと思います。玉司や金塊路が定番で、時々、他のお客さんから親しげに「農研の学生か」と話しかけられましたがご馳走になった記憶はありません。1年目の夏には本島にある岡大の施設に海水浴に行きました。夜にはみんなで花火をしたんですが、普通の花火に飽きていた私は花火を口にくわえるという馬鹿なことをしてしまいました。そして、何故か逆噴射でもしたのでしょうか、強烈な熱さを首に感じ、触ったら一皮ズル剥けてひどい男になっていました。その時花火を持って楽しそうに走り回っていた同じ研究室の小野君を羨ましく思ったものでした。その夜は一晩中、痛みで眠れませんでしたが、翌日はその醜い姿で傷にはしみましたが海水浴を楽しみ、同じ研究室の山下さんと共に新たな友達作りにも成功しました。
 2年目の夏は中庭で夏祭りを催し、私は機能物質の土井君や事務の野登原さんらとバンドを作りライブを行ないました。先生も学生もいっしょにビールを飲んで歌い語らい合ったとても気持ちのよい一時でした。その秋には農学部の収穫祭にも参加し、屋台をを出して、またもや私は土井君らとライブを行ないました。津島キャンパスから離れている私達にとって津島の学生と交流するとてもいい機会だったと思います。
 そのように学生生活を楽しんでいた私ですが1年目とは違って学生同士のまとまりがなくなってきているのを感じていました。人が増えれば仕方のないことなのですが、もう少し繋がりを強くしたいと思っていた私は、何かいっしょにスポーツをできればと思い、サッカー同好会を作りました。経験者は私と遺伝子解析の高野君ぐらいでしたが、そこそこの人数が集まってくれて、一時は毎週向かいの倉敷西小のグランドを借りてボールを追い掛け回していました。実験を終えて(放り出して)夕暮れにみんなで流した汗は気持ちのいいものでした。また、津島のサッカー同好会と試合も行い、終わってから、両チームいっしょに飲みに行った先で血の小便を流したこともありました。たまにしかしない運動が激しすぎると良くないですね。その頃の私の体は1/4がビナンの弁当で、1/10が来古の中華丼でできていたので無理もなかったかも知れません。それでも、サッカーを通じてあまり話すことのなかった人とも交流がもててとてもよかったと思います。現在では日本農薬㈱で、その時サッカーを始めた遺伝子解析の梅谷君とサッカー部を創設し、いまだにボールを追いかけています。今度研究所を訪れたら、また、中庭で語らい合いたいです。

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「私の近況」
飛石久弘(平成8年卒業生)

私が倉敷を離れてもう2年が過ぎました。学生時代の2年間は時間の経過がゆっくりだったと思います。とても規則正しいとはいえない生活でしたが、思いつきで生きていられて幸せだったと思います。その分、先生方には迷惑をおかけしたと思います。
研究からは正直言って何かが得られたというのはありません。試行錯誤して、いろいろ考えたりしたんですが、2年間が短かったのか、私の頑張りが足りなかったのかは、過去のことなので考えるのはやめます。でも、倉敷の2年間は楽しい思い出として残っているのは確かです。以前、資生研によったときにあいも変わらずに猫が元気にしているのをみて、ふと数年前にテニスをしたり、酒をのんだり、ボーっとしていたことが思い出されました。また、倉敷にきてすぐにバイクが盗難にあい、必死になって探したことがありました。もうそのバイクもないのですが⋯。
そんな生活をしていて働き始めたらどうなるのかと思ってたんですが、不思議と働き続けています。職種としては環境調査になると思います。大学時代から植物としか関わっておらず、職業としてもその関係になると考えていたのですが、いざ働いてみると陸上の仕事はあまりなく、ほとんど海上で作業をしています。または、川で魚介類の採取をしています。いまのところ健康に働いていますが、現場にでると何日にも及ぶので家賃がもったいなく感じるときがたまにあります。というわけで、結構忙しくてまとまりのない文章になったことをお詫びします。これから社会にでようという人にもあまり参考にはならないと思いますが、お許しください。

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あとがき 
岡山大学副学長、生態化学解析研究室教授 青山 勳

同窓会「岡山大学くらしき会」の発足の準備を始めてからもう3年になります。私が研究所を主体とする同窓会の必要性を感じるようになったのは、1995年研究所創立80周年記念式典を開催したときです。記念式典は学内外からの多数の来賓を迎え、盛大に開催されましたが、何か一つ欠けていることを感じました。それは、その時既に研究所の卒業生は100名を越えていたと思いますが、同窓生の出席者が少なかったことであります。学生達は研究所から巣立ちながら、研究所に対する帰属意識を持たないまま卒業していったのではないだろうかという、教官としての反省でありました。最初の大学院生を送り出して、既に30年、はじめの頃は一人二人在学しているかどうかどうかという極めて少数であったとはいえ、既に社会的にも重要な立場に立っておられる人も多くおられます。研究所にとって、卒業生は大きな力であり、財産であります。この様な思いから研究所の同窓会の設立を思い立ちました。幸い研究所には既に同窓生が教官として職務に就いておられ、その人達を中心として精力的な活動が始められました。 まず、1997年9月に卒業生に、次いで現職員にアンケートを行って、同窓会設立の合意を得ました。圧倒的多数の合意を得られたことは、卒業生に研究所に対する思い、帰属意識があることの反映であると解釈し、感無量の思いをしました。それ以降は研究所の村井助教授を同窓会設立準備委員長として、数度の会合がもたれ、1999年1月16日倉敷市民会館で、設立総会・記念講演会が、倉敷国際ホテルで祝賀パーティーが開催され、それぞれ98名、110名、92名の参加者がありました。名誉会員として大原謙一郎氏を迎えることができました。総会の場で同総会規約も決定され、研究所にとって第1回の卒業生である那須英夫さんを初代会長に選び、役員の選出を行うことができ、最初の同窓会として大成功であったと思います。今後この同窓会組織を、卒業生の方々がどのように楽しみ、どのように利用されるか全く自由であります。何か困ったことがあればいつでも、遠慮することなく、研究所に足を向けてほしいと思います。それが母校だと思います。私たち、今内部にいる教職員にとっては、教職員の先輩の方々、同窓生の人たちとの触れ合いを大きな楽しみとしています。そして研究所のサポーターになって頂けることを期待しています。国立大学も独立行政法人化への道を歩み始めており、ますます厳しい状況に直面することになると思いますが、同窓生の方々の支援をお願いしたいと思います。同窓会の今後の発展が期待される所であります。 最後に同窓会の設立準備に当たり、実行し、そしてこの同窓会誌の編集に携わって頂いた所内若手委員の方々に厚くお礼申し上げます。

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2000年3月