研究所紹介

大原奨農会農業研究所 創設者 大原孫三郎氏について

本研究所の設立者である大原孫三郎氏(1880年 -1943年)は倉敷市の大地主で倉敷紡績の経営者であった大原孝四郎の3男として生まれたが、2人の兄が夭折したため、大原家の嗣子となった。

1895 年に閑谷中学校に入学し、1897年に上京して東京専門学校(後の早稲田大学)に入学した。

1901年に帰郷後、慈善事業家の石井十次を知り、社会福祉事 業にも興味を示すようになった。同年、結婚後、倉敷紡績に入社して職工教育部を設立、翌 1902年には工場内に尋常小学校を設立した。また、倉敷商業補修学校(現在の倉敷商業高校)を設立し、働きながら学ぶ工員の教育を支援した。地元の子弟 のために大原奨学会を開設した。後に大原農業研究所の所長になった近藤萬太郎博士、 大原美術館の美術品のコレクションを収集した洋画家児島虎次郎もこの奨学生となっている。

1906年に倉敷紡績の社長となり、工員の労働環境改善を図っ た。また、幹部社員に大学・専門学校の卒業生を採用した。一方では、当時日露戦争などで増えた孤児を救うために、会社の利益のほとんどを孤児院の支援に用 いた。

1914年に約100町歩(約100ヘクタール)の土地を寄付し、財団法人大原奨農会農業研究所(現在の岡山大学資源生物科学研究所の前身)を設立し、 農業の改善を図った。大原奨農会の設立に関して、大原孫三郎氏は「大原奨農会の目的は“深遠なる学理を研究し、これが実際的応用に依る農事の改善”であ る」と述べている。後にさらに100町歩が追加された。「大原農業研究所は父が最も切実な期待をこめて作った最初の研究所であった」と長男の大原総一郎氏 が記している。

1921年に附属図書館を作り、国内はもとより、外国からも雑誌や書籍を取り寄せ、蔵書の充実を図った、近代植物生理学の基礎を固めた第一 人者であるライプチッヒ大学の故ペッファー教授の蔵書を一括して購入できたのも、近藤所長の説得と大原孫三郎氏の果断な判断と多額の援助に依っている。資 源生物科学研究所玄関前にある大ソテツ(推定樹齢350年以上)は、大正時代に大原家の庭から農業研究所玄関前(現在の史料館前)に移植され、その後 1999年に現在の場所に再移植されたものである。

1919年に大原社会問題研究所(現在の法政大学大原社会問題研究所)を開設、1921年には倉敷労働科学研究所(現在の労働科学研究所)を開設した。

1923年倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)を設立し、工員のみならず市民の診療も行い、現在に至っている。また、中国水力電気会社(現在の中国電力) を設立し、中国合同銀行(現在の中国銀行)の頭取となるなど、地元経済界の中心人物として活躍した。

更に1926年に倉敷絹織(現在のクラレ)を設立し、 1930年には、児島虎次郎に収集依頼した各国の美術品を収蔵する大原美術館開館を創設した。彼の伝記には、「わしの眼は十年先が見える(城山三郎・著  新潮社・刊 1994年)」がある。

大原奨農会農業研究所 創設者 大原孫三郎氏

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